梢の春
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夕飯どき、外に出たついでに桜を見ていこうと鈴木が言った。
川沿いの土手に延々続く桜並木は、満開の頃にはいつも花見客でにぎわう場所だった。
しかし、二人が土手を登ってみると、花はまだ三分咲きといったところで、散策している人間もまばらだった。
鈴木は、やってしまったという顔をして、今年は開花が遅いんだなあとため息をついた。
その嘆息を背中に聞きながら、死々若は人の少ない桜並木を歩いた。
満開の桜の美しさには代えられないが、こんなふうに静かに眺められる桜もそう捨てたものではないと、死々若は心の中で思う。
長く低温の続いた今年の冬もようやく終りを告げ、今日などは花曇りの生温かい一日だった。
おかげで例年より遅いながらも開花が進んだのだろう。
夕闇がせまり始めた並木道は、桜目当ての散策者と、日常の時間を送る通勤・通学者がゆるやかに行き交っていた。
時折まとまった開花を見せている枝があり、思わず立ち止まる死々若を、学校帰りの女子学生たちがなにごとか囁きあいながら振り返っていく。
しばらく歩いて鉄道の駅の近くまでさしかかると、少しは人も増え、河原の地べたに布を敷いて宴会を始めている集団が散見された。
あまり開いてもない桜の下で花見とは気が早いが、酔客たちは元々花なんかろくに見ていないのだし、いっそ潔いというものだと死々若は思った。
沿道には花見客目当ての出店もちらほら出始めていた。
歩みを止めて焼きそばの屋台をじっと眺めていた死々若は、鈴木の袖を引いて言った。
「おい、あれが食べたい」
「ええ?あんなの食べるのか?
だって今日はこれから気取らずコース料理が楽しめる住宅街の中の大人の隠れ家的フレンチレストランに…」
「(よく噛まずに言えるな…)
面倒くさい。あれがいい。」
「ええ〜」
あんなのたいしてうまくないと思うが…となおもぶつぶつ言う鈴木だったが、結局リクエストにこたえて二人分の焼きそばを持って戻った。
通行人と酔客を避け、土手を少し下ったところに腰を下ろして二人は焼きそばを頬張った。
「まあ、たまにはこういうのもいいかもな。」
鈴木は早くも機嫌を直し、ぱくぱくと快調なスピードで焼きそばを腹におさめた。
そして食べ終わるとどこからか手鏡とハンカチを取り出して口元の青海苔の始末に余念がなかった。
「せっかく来たから、もう少し歩いてから帰ろうか」
立ち上がって、服についた草を払いながら鈴木が言った。
死々若はうなずくでもなく、さっさと先に立って歩き始め、鈴木はあわてて焼きそばの空パックを出店の屑かごに戻しに行った。
もっと先まで行くとやがて護岸のコンクリートが目立ち始め、桜並木は途切れた。
鈴木はこんなところまで徒歩で来たのは初めてだったので、味気なくなった川面の景色を覗き込んで少し落胆した。
そろそろ引き返そうかと思い振り返ると、若はすでに川沿いから離れた道へ向かいてくてくと進んでいて、また鈴木をあわてさせた。
土手をくだって少し歩き、小学校の敷地の端で死々若は立ち止まった。
そこにはひときわ大きな桜の木があった。
冷たい風が当たりづらいせいなのか、満開とはいかないまでも、土手の木々よりはたくさんの花を開かせていた。
死々若の背中に追いついた鈴木は、大木を見上げて思わずため息をもらした。
小学校の囲いの中にあるため、さすがにここには酔客の姿も無かった。
その太くひび割れ苔むした幹は、過ごしてきた歳月の長さを感じさせた。
「老木だな。」
鈴木がつぶやいた。
「ああ。」
「花の盛りまではもう少しだが、美しいな…」
鈴木は感嘆のため息をもらした。
凄みすら感じる樹容に、死々若はふと、今はもう亡い姥桜を思った。
姥桜とは言いすぎか。普段は単なるしわくちゃの婆だったから。
だが、おそろしく強い女だった、と思い出す。
自分が人間に、それも老婆に負けたうえ、滅茶苦茶に鍛えられることになるとは夢にも思わなかった。
あれはひどい経験だった。
しかし、あんなに激烈に自分たちを鍛えたあの頃、奴はもう晩年だったのだという。
信じがたいことだが、現に、間もなく幻海は死んだ。
桜を目に映しながら、死々若は、最後に幻海と会った時のことを考えていた。
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蔵馬がそれとなく、師範がもうだいぶ悪いようだと六人に連絡してきたのは、幻海が死ぬ数ヶ月前のことだった。
すぐに凍矢あたりから見舞いの話が持ち上がって、鈴木と死々若にも声がかかった。
鈴木はありがたく一緒に行くことにしたのだが、死々若は気が進まないと言って参加しなかった。
本当に行かないのか、と何度も聞きながら鈴木は出かけていった。
その姿を死々若は背中で見送った。
鈴木たちの見舞いから数日後の昼下がり、死々若は一人幻海のもとを訪ねた。
案内に出た家政婦の話では、近頃は眠っていることが多くなったという。
連絡もなしにふらりと立ち寄った死々若だったが、たまたま幻海が起きている時間に来合わせた。
死々若が部屋に通されると、幻海は床の中から身を起こして出迎え、悪いが寝間着のままで失礼するよ、と笑った。
「そんなところにつっ立ってないで座ったらどうなんだい」
幻海は部屋の入り口に立ち止まったままの死々若に声をかけ、家政婦がお茶とともに用意していった座布団を勧めた。
その声は思いのほか元気そうなものだったが、やはりひと頃のような張りはなく、かすかに死々若の心を重くさせた。
「まだくたばってなかったか。」
久しぶりに聞く死々若の憎まれ口に、幻海は笑い、少し咳き込んだ。
「さすがにあちこちガタがきてる。じきにお迎えが来るさ」
そこには、かつての修行中の厳しさとも、いつかの試合の時に見せた凛とした表情とも違う、静かに澄んだ童女のような眼差しがあった。
どこが悪いのか、どう悪いのか、死々若は聞けなかった。
年を重ねた命が、静かに燃え尽きようとしているのが分かった。
「人間など哀れなものだな。ほんのわずかな時間しか生きられん」
「なに、たいして変わりは無いさ、妖怪も人間も。終わってみりゃあっという間のこと」
「……もう棺桶に片足突っ込んでるような物言いだな」
「は!違いない。まあこっちでやらなきゃいけないことも、もうたいして無いからね。
あっちで待ってる奴のほうが多くなったよ」
幻海は、死々若の思い出の中の彼女とは別人のように、穏やかに目を細めた。
「多少気になるといえば、出来の悪い弟子たちのことくらいかね」
悪口に敏感な死々若はぴくりと眉を動かす。
「特にあんたは口が悪いからねえ。せいぜい友達なくさないように気をつけるんだね」
「なっ…余計なお世話だ!」
死々若はさらりと図星を突かれてむくれた。
「言葉で伝えるのが下手なら、無理しないで他のやり方でやるこった。
でもまああんたは大丈夫だろ。周りがちゃんと見ててくれる奴ばっかりだ」
妙に楽しげにそんなことを言い募る幻海に、死々若は口答えする気をなくし、への字口で黙り込んだ。
「さあ、こんな死にぞこないの所にいつまでも居たってしょうがないだろ。帰った帰った」
ぱんぱんと手を鳴らし、幻海は死々若の腰を上げさせた。
「少し眠るよ。
今日はありがとう」
思わぬ礼を言われ、死々若は妙に胸苦しいような気持ちになり、黙って背を向けた。
「達者でおやり」
部屋を出ようとする死々若の背中を、ぽつりと声が追いかけた。
「…言われんでもな」
外に出ると、門の所で鈴木が待っていた。
行き先は告げずに来たのに、自分より泣き出しそうな顔をしている鈴木に少し腹が立って、死々若は口を尖らせた。
「なんだその辛気くさい面は。」
「なんだって、そりゃお前…」
「俺は花見のついでにここに寄っただけだ。もう行くぞ。」
言い捨ててさっさと山門を出る死々若を、鈴木も後から追いかけた。
幻海邸から更に二つほど山を越えた深山には、見事な山桜の大木があり、修行の合間にみんなで花見の宴会をしたこともあった。
ここで修行を重ねた日々から、はや数年が経っていたが、桜の木は変わらない姿で二人を迎えた。
下まで近づくと、青空が霞がかって見えるほど、花は満開だった。
時折風に花びらが舞い散り、空高く運ばれていく。
死々若は無言で霞む梢を見上げていた。
つとその背中に鈴木が寄り添い、ためらいがちに死々若の肩を抱いた。
鈴木の手のひらが腕に触れ、ひどく温かかった。
―俺が泣くとでも思ってるのか?
むっとして、何か言ってやろうと死々若は口を開きかけたが、ふいに言葉に詰まって下を向いた。
そしてそのまま長い間、じっと鈴木に体を預けていた。
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あの頃の鈴木は、体に触れてくるとき、いつもどこかぎこちない調子だった。
ずっと自分のことばかりで、他人に興味がないような奴だったから。
きっとそのせいだったんだろうと、死々若は今ではそう思う。
あの山桜を見た時分から、決して短くはない時間が過ぎた。
なぜか今も鈴木の横に定位置をとり、生きている自分に、まだはっきりとした理由付けはできないでいる。
小学校の桜の前で、無心に枝を見上げる鈴木の後姿を、死々若は眺めていた。
「それにしても満開じゃないのが惜しいな…
トキタダレの実を応用したら、今すぐ一気に開花させる薬ができそうなんだけどなあ」
思考が明後日に飛び、あらぬことをつぶやき始める鈴木だったが、冷たくなった死々若の視線に気づき、顔を赤らめてごまかした。
「い、いや、やらないけどな!俺だってワビサビの心は分かるしな!」
「ふん、及第点だな」
知り合った頃の口癖、老いる前に死ぬって、今でもまだそう思ってるのか?
死々若はふいにそんなことが気になった。
こうして同じ時間を過ごして、ともに老いぼれてくたばるのも悪くないと、死々若はこっそり考える。
いつか、動くのも面倒なくらいに年をとったら。
最後に俺は小さい姿になって、ずっとそのままいてもいいかもしれない。
こいつはいつか変装してた爺みたいな姿になるのかな。
「若、なんだか楽しそうだな?」
「別に」
少々気恥ずかしくなり、死々若は一瞬心に浮かべていた妄想を打ち消した。
いつしかすっかり日は暮れて、夕闇に浮き出すような桜花の下に二人は佇んでいた。
「そろそろ帰ろうか。」
鈴木はごく自然に死々若の手をとり、歩き始めた。
<了>
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